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2016.08.17更新

私が弁護団に入ったわけ
 私の父は現役の都立高校教員である。また母は2年半前に退職してしまったけれど,東京都の小学校教員であった。幼い頃から,教育現場は,私にとって日常の話だった。
  父からは,10.23通達が出される何年か前から,卒業式に日の丸・君が代が入り込んできている話を聞いていた。式の中に君が代がむりやり入れられた,式次第にも書き込まなきゃいけなくなった,式次第には君が代じゃダメで国歌と書かなきゃダメだ,国歌斉唱と書かなきゃダメだ…。
  一方,週案の提出が義務付けられたり,主幹制が導入されるなど,教員に対する統制が強まっている話も聞いていた。学校が息苦しくなってきて,母は退職する数年前から,早く辞めたい,早く辞めたいと言うようになっていた。母が早く辞めたいと言い出したころ,私は,母が誇りをもって,生きがいとして続けてきた「教師」としての仕事なのだから,定年前に辞めるというのはなにか挫折のような気がして,「頑張って続けなよ」と励ましてきた。しかし,学校現場の話を聞くにつけ,学校から自由がなくなっていること,そして未来に希望が持てないことを,私自身も感じられるようになり,無理して続ける方がかわいそうに思えてきた。そしてついには「辞めてもいいよ」と言えるようになり,母も2003年度をもって退職することを決意した。
  そのような中の10.23通達だった。通達が出された3日後,私は自由法曹団の全国総会の場で,10.23通達の話を聞いた。処分を前提に起立斉唱を強制する内容に本当に驚いた。家に帰って父に「大変なんじゃないの?」と聞くと,父は「そうなんだよ。それでみんな,組合も,どうすんだどうすんだって大変なんだよ。」と言った。全国総会の場で,「サワフジ先生が無名抗告訴訟をやらないかと言っている」という話は小耳に挟んだのだが,当時は「サワフジ先生」と面識もなく,「無名抗告訴訟」という言葉も聞いたことがなかったし,本当に裁判になるのかも分からず,興味はあったけれど情報が入らなかった。
  2003年12月になって,ようやく訴訟の話が聞こえてきて,同期の紹介で弁護団につながった。家に帰って「弁護団に入ろうと思うんだけど」というと,父は「もう原告になったよ」と言った。(それまで全然知らなかった。なんで話してくれなかったんだろう?)父に「娘が弁護団だとやりにくい?」と聞くと,「そんなことないよ」と言ってくれたので,弁護団に加わる決意をした。父の友人として,同僚として,都立高校の先生には小さいころからお世話になってきた。私にとってはみんな親のようなものだ。都立高校の話は私にとって他人事ではなかった。

学校現場の苦悩
 弁護団に加わった私の仕事は訴状の損害論,つまり原告が10.23通達によっていかに苦しみ,悩んでいるかを書くことだった。「現場報告」には,生々しい苦悩が書かれていた。どの教員も,生徒との関係で悩んでいた。絶対的に誤っているこの強制に従うことは,これまで自分が生徒に語りかけてきたことと矛盾する行為である。これまでの教育信念,教育実践を曲げるということは,教員としての自分の人生を自ら辱めるものであるが,10.23通達はそれを教員たちに強要するものだった。繰り返すと処分が重くなり,3回目か4回目には免職になるといわれていた。わずか2年で免職になってしまうという,処分の威力はすさまじかった。生徒との関係,家族との関係,自分の信念を曲げるのか,それとも教員であり続けることに意味があると考えるのか,こんなことがまかり通るなんて許されるのか。頭の中をあらゆる考えがぐるぐるとまわり,体調に変調をきたす教員がたくさんあらわれた。そのなかでも「踏み絵」を踏んでしまった教員は,その尊厳が傷つけられ,精神的被害は著しかった。10.23通達は,教員の教育への情熱を奪うものだった。学校は無力感に覆われていた。

エスカレートする都教委の暴挙
 訴訟が始まってからも都教委の暴挙はとどまることがなかった。大量の懲戒処分が蛮行され,嘱託教員はたった1回,40秒間の不起立で,新学期の2日前に突然職を失った。板橋高校は,学校が公安警察にさらされた。生徒の不起立が多かった,生徒に「内心の自由の説明」をした,生徒会が「日の丸・君が代の討論会」を実施したとの理由で,学校に大量の都教委職員が調査に入り,事情聴取を受けさせれ,厳重注意等の「指導」がなされた。夏には「再発防止研修」が実施された。都議会では教育長が,反省の十分でない教員は研修終了とならないので生徒の前に立たせるわけにはいかないといった答弁をしていた。予想された出来事だったが,翌年以降も,過去に不起立をしたことがある者は嘱託に採用してもらえなかった。
  私たちは,大量処分に対しては東京都人事委員会で大規模に不服申立てを展開し,嘱託教員の解雇撤回裁判を起こし,再発防止研修に対しては執行停止を申し立て,嘱託が不採用になった教員も次々と提訴した。そして,それぞれの裁判で得られた成果を,各裁判で有機的に活用し,予防訴訟でも原告・証人として合計12人の現職教員の訴えを裁判所に聞いてもらった。保護者も証言台に立った。現職教員である元校長が,都教委の「指導」の詳細を克明に語った。そして大田尭教授,堀尾輝久教授が,学校における自由の必要性を熱く訴えた。
そして判決…!
  すごい判決だった。裁判所が「起立しない自由」「ピアノ伴奏をしない自由」を憲法上の権利として認めてくれたのだ。裁判長の口から「いかなる処分もしてはならない」との言葉が出たときは,これまで苦悩して苦悩して苦悩して,影で涙を流してきた原告の先生方の顔が次々と浮かんできて,涙した。
  地裁判決は,まるで私たちの訴状のようで,当たり前のことをさらっと書いているのだけれども,それでも「憲法は,13条等によって,原告らの思想と相反する世界観,主義,主張等を持つ者に対しても相互の理解を求めている」との表現に代表されるように,憲法の精神に忠実であり,教育基本法の趣旨を正しく理解して書かれたもので,大変評価できると考えている。
  「無謀訴訟」と呼ばれた予防訴訟が,私たちの「希望訴訟」になった。この判決が,全国に勇気と希望を与えたと確信している。そのことが,とても嬉しい。

判決全文(裁判所の判例集ページへ)

投稿者: 川崎合同法律事務所

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