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2016.08.17更新


 1970年4月、大気汚染の激じん地、川崎合同法律事務所に入所。
 秋から、一年先輩の杉井厳一さん、大貫端久さん(東弁)、同期の岡村共榮さんと私は、公害病認定患者の名簿をもとに住宅地図に一軒一軒プロットして準備を整え、患者訪問活動を行うこととした。目的は、被害者救済と公害対策に関する患者要求の聞き取りで、この作業は、町内別小規模集会、要求のとりまとめ集会を経て、「38項目」要求としてまとめあげられた。
 地域に入り、患者の声を要求にまとめあげ、関係団体の協力を得て、川崎市交渉へと発展させていった。


 川崎の公害対策は、71年に成立した革新自治体の施策によって、一定の前進をみたものの、巨大汚染源のコンビナート群(固定発生源)の抵抗と自動車排ガス規制(移動発生源)の停滞によって、抜本的な改善は進まなかった。
 そうしたなかで、78年7月に環境庁がNO2環境基準の改悪を強行し、経団連がマル秘文書で公害健康被害補償法の廃止を唱えるところとなった。そこで、川崎でも、大阪・西淀川訴訟につづき、大量の原告団を組織して、裁判を提訴することとした。請求は損害賠償請求と大気汚染物質の排出規制・差止請求の2本柱。提訴後に、公害で破壊された地域の「環境再生とまちづくり」という運動上の要求も加えられた。


 82年3月に提訴。以後2次~4次と追加され、原告団は、440名に達した。弁護団団長は、矢島惣平さん。一審判決後、体調を崩したため、その後は、加藤満生さんが就任。
 裁判は、96年の企業和解まで14年余、99年の国和解までに、さらに2年半を要した。国との和解条項では、「公害の根絶」と「環境再生とまちづくり」をめざすこととして、被害者と加害者が対等平等に協議する場の「道路連絡会」を制度化した。
 和解後、原告団と弁護団は、前記目的を達するまで、「解散しない」と宣言し、現在に至ってもこの活動を継続している。
 ちなみに、国道15号、国道1号の環境にやさしい道路構造対策、道路沿道対策、緑化対策は目にみえた形で進行し、今は、自動車専用レーンづくりが進んでいる。
 川崎市交渉もこれと結合して進められ、地下街アゼリアや駅前広場の改造も行われ、駅前の平面横断も「社会実験」をふまえて実現させた(近々にも、川崎駅北口の大改造も開始される)。
 公害裁判勝利和解の成果は、こうした「まちづくり」の実践とも連動して現在進行形の形で進んでいる。
 従って、加藤団長以下、団員は「生涯」、川崎公害弁護団として取り組みを継続する「さだめ」となっている。

投稿者: 川崎合同法律事務所

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